国民主権を侵す「資本の暴走」を「政治のチェンジ(変革)」に擬装する連立与党らの犯罪
http://www.asyura2.com/08/senkyo52/msg/177.html
投稿者 鷹眼乃見物 日時 2008 年 7 月 26 日 16:41:37: YqqS.BdzuYk56

[民主主義の危機]国民主権を侵す「資本の暴走」を「政治のチェンジ(変革)」に擬装する連立与党らの犯罪


<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080726


【参考画像1】映画『告発の時』・・・公式HPはコチラ → http://www.kokuhatsu.jp/
[f:id:toxandoria:20080726153756j:image]
[f:id:toxandoria:20080726153757g:image:right]
・・・左の画像はhttp://blog.eigotown.com/celeb/John_OConnor/2008/03/the_valley_of_ellah.htmlより
・・・右の画像はhttp://ollimo.cocolog-nifty.com/kokorade/2008/01/index.htmlより
・・・この映画の感想は、当記事の末尾「まとめに代えて」に書いてあります。

  

【参考画像2】
Lara Fabian et Serge Lama - Les Ballons Rouges(origin.:Was ist das Ziel - Alexandra Nefedov)
[http://www.youtube.com/watch?v=9lMuixLUwZA:movie]


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(人格権・生存権を破壊しつつある米国型市場原理の暴走)


[f:id:toxandoria:20080726153759j:image]2008年6月末に翻訳版が刊行されたばかりのロバート・B・ライシュ(Robert B. Reich/1946- /ハーバード大学教授などを経てカリフォルニア大学バ-クレ-校・教授)の著書(下記◆)を読むと、「主権(人格権・生存権)を侵犯する市場原理」の実像(市場原理主義の牙を剥く資本主義の暴走)についての日本政府による対国民・偽装工作の邪悪で錯誤的な(あるいは、その余りにも幼稚な)意図が炙り出されてくるように思われます。ちょうど、これは前回の記事[2008-07-20付toxandoriaの日記/「市場原理によるプライバシーの権利(データ主体権)の破壊」に抗うEU、政局優先で「その破壊傾向」を隠蔽する日本政府、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080720]の主要テーマであった「市場原理による、日本国民データ主体権の破壊」という問題意識にも、ほぼ重なります(画像はhttp://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/32085813.htmlより)。


◆ロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』(雨宮 寛・今井章子訳、東洋経済新報社、¥2,000.-+税)


その、2008-07-20付・記事(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080720)でも書きましたが、特に「人格権(プライバシーの権利=データ主体権)」の問題は、生物種たる国民の生命維持を守る権利と見なすべき人間にとって最も基盤的・基礎的なものです。既に、このことに着目していたOECD(経済協力開発機構)は、1980年に策定・発表した「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドライン」(参照、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oecd/privacy.html)で、「データ主体権」(一生物種としての人間の人間たる基盤を形成する人格権)という、時代の変化に合わせた「明確な概念上の再定義」を発表しています。この重大な意味に気づかない(気づかぬふり、死んだふり、寝たふりをしているか、あるいは本当に気づいていない)のが今の日本政府とその取り巻き連中であり、言い換えるなら、それは福田政権およびそれに群がる御用マスゴミ・御用学者などです。


この大いなる日本政府の錯誤は、7月22日に発表された二つの白書にも現れています。まず「08年・経済財政白書」(参照、http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200807230056a.nwc)は、“サブプライム問題による世界経済の減速が国内景気の停滞に直結したのは、日本経済が輸出頼みで海外の景気動向に影響されやすいからで、その成長力を高めるには企業や家計が、役立たずの「伝統的な日本型企業システム」を捨てて一層のハイリスクを取る経済システムへ切り替え、特に家計資産(預貯金)をハイリスク・ハイリターンの投機・投資へ加速的に振り向ける必要がある”との指摘で終わっています。つまり、サブプライム問題を引き起こした原因が、資本主義の暴走による擬装的なハイリスク・ハイリターン・システムそのものと、それに関わる不正工作(複雑怪奇な擬装証券化システムと格付け機関による恣意的でデタラメな評価/下の注記▼参照乞う)であったという点まで踏み込まず、恰も、その部分は神聖なブラックボックスであるかの如く放置されたままです。


(注記▼)「サブプライム・ローンの詐欺的性格」の問題


●RMBS(住宅ローン担保証券)の最劣等部分だけを取り出した不動産債権にかかわる複雑な証券化商品(例えばCDO(評価・トリプルB格の証券だけを集めた債務担保証券)など)がファンド分野全体へ浸透・拡散し、更に空売り・スワップオプション等のヘッジ技術、あるいはディリバティブ等の高度な金融工学関連技術への過剰なのめりこみで、ファンドの基盤が過剰に際限なく虚構化したことがサブプライム・ローン問題の本質である。


●しかも、肝心の「格付け会社の評価」そのものについても「詐欺的な作為性の可能性」(フェアバリュー(Fair Value/or Fair Price/市場価格に基づく会計上の時価)は公正か否か?)をめぐる諸問題が次々と噴出するなど、米国の金融工学技術関連のフィールド全体での犯人探し(疑心暗鬼)の動揺が果てしなく広がり、広義の金融市場全体での混迷の度合いが深まる一方となり、その意味でサブプライム・ローンの詐欺的性格という根本問題は今も解決されていない。


●いずれにせよ、このサブプライム・ローンの由々しき本質は、本来であれば絶対に貸すべきでない“既に、事実上破綻してしまった「低格付け層(サブプライム)の人々」を、契約後の数年間だけの“誘導的な見せかけの低金利設定”という、ほとんど詐欺に近い「騙し商法」で債務契約へ誘い込んだ点にある。


●結局、これらお気の毒な立場の人々(多くの弱者層の人々)は、擬装低金利(実質的な超高金利)で住宅ローンを貸し付けられ、一方で不動産バブルの煽り(地上げ)が公然と行われ、それが突然にはじけた”というのが現実である。つまり、これは米国流市場原理主義の<異常で悪魔的な部分>が噴出したものに他ならない。


一方、同じく7月22日に発表されたばかりの「08年・労働経済白書」(参照、http://www.asahi.com/business/update/0722/TKY200807220088.html)は、“正社員が減り、非正規雇用依存へ過剰に傾斜しすぎたことが日本の生産性を停滞させたのは明らかなので、安定的な長期雇用を前提とする「日本型企業システム」を見直すべきだと指摘しています。この明らかに自己矛盾的な政治・経済・財政・労働行政の結果分析と提言を日本政府に属する諸機関(担当官庁)が臆面もなく堂々と報告することの<無責任な他人事感覚>には驚かされるばかりです。なによりも、このような矛盾と混迷をもたらし日本国民を不安のどん底へ叩き込んだ張本人が、あの「小泉劇場」から「安部の美しい国」に連なる一連の擬装・茶番劇の出演者たち(特に、当時の小泉劇場と経済財政諮問会議にたむろした竹中・八代ら御用学者たち)であったことを想起すべきです。


ともかくも、1970年代頃から暴走し始めたアメリカの資本主義が、やがてアンバンドリング、デュー・デリジェンス、ベスト・エフォートなどITユビキタス社会化に特有の新しい価値観と新自由主義(ネオリベラリズム)が標榜する市場原理が融合することで「市場原理主義の牙」を身に帯びることとなり、今や、それは国民にとって最も肝要なものと見なすべき人権(特に、その中で最も基盤的部分と見なすべきプライバシーの権利と生存権)が破壊されつつあるという問題意識です。無論、ロバート・B・ライシュは、アンバンドリング、デュー・デリジェンス、ベスト・エフォートなどの用語を使ってはいませんが、結果的に、現代の「IT-Web情報化(ユビキタス)社会」に特徴的なこれらの諸条件が「市場原理主義の牙」を磨き上げ、安定的な日常生活を提供する「公共の役割」を破壊しつつあるということになります。別にいうなら、これら「IT-Web情報(ユビキタス)技術」の高度化がもたらす副次的な社会・経済効果が人間に潜む剥き出しの動物的欲望を奥深い内側から繊細にコントロールすることによって、この「市場原理主義の牙」は、ますます鋭く磨き上げられつつあるということです(2008-07-20付・記事から、これら三つの用語解説を以下に再録しておく)。


アンバンドリング(unbundling)


元の意味は「束をばらす」。1960年代にIBM社が、ある画期的ビジネス戦略に命名したのが嚆矢。従来、製品価格は各種の付加価値が加算され決まってきたが、発想を変えて最小限の本体と諸付加機能の価格を別建とした。その結果、今やパソコンと各種IT機器が殆ど文具感覚で使えるようになり、その恩恵を享受している。しかし、これが規制緩和の暴走と融合し、次第に消費者に責任を押し付ける無責任ビジネスや作為的に消耗品や別売機器等を際限なく売りつける一種のポンジー・ビジネスへ変化してきた。そのため、この言葉は規制緩和と殆ど同義で使われることもある。

デュー・デリジェンス(due diligence)


元は金融法関係の用語で、直訳で「投資家が(M&Aや事業再編で)当然やるべき努力」。それが、市場環境の規制緩和で投資家自身の自己責任による「リスク選好」(リスクに見合う大きなリターンのチャンス)が増える意味でも使われている。従って、これも殆ど規制緩和と同義で使われることがある。


ベスト・エフォート(best-effort)


インターネットを使うネットーワーク社会はアンバンドリングの原則で機能しているため、ネットサービスそのものは回線が異なるサービスと個別のアプリケーションサービスに切り離されている。それはサービス提供側がユニバーサルサービス(一元的制御)の責任を放棄したことに等しい。しかし、パソコン端末という高性能・低価格の機器を賦与された「ユーザーの満足度」と「その理不尽さ」は、デファクト的に(事実上)バランスしている。従って、事故等の不都合が生じても、個々のサービス提供者は「自らの出来る範囲での最善の努力」(best-effort)のみで容認・解放され、ユーザーはそのレベルで我慢すべきものと了解されている。従って、このベスト・エフォートは社会が無責任化する傾向を後押ししていると見なすこともできる。


因みに、この<市場原理の牙による公共の破壊の問題>は上掲記事◆(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080720)の中でも、「自治体再生法制に隠れる市場原理主義の牙、それを擬装・隠蔽する日本政府」として既に取り上げました。つまり、長期的な視野の中で歴史と伝統に基づく地域経済と住民の厚生・福祉を安定的に担うべき「地方債の性質」と、短期型ハイリスク・ハイリターンを重視する「格付け機関評価」の間には、根本的に相容れない「付加価値に対する評価基準の違い」があるので、「市場原理の牙」を自治体運営の活性化に生かそうとする手法は、よほど慎重に客観的で公正な制度設計が行われぬ限り(例えば、個人情報保護法(基本法)の場合に喩えていうなら、それを公正・中立な第三者機関としてのデータ保護監査人の設置で補強する仕組みを実現させるような工夫が実現せぬ限り)、一方的に自治体側(=地方に住む住民たち)が直接的に身に浴びる新たなリスク要因(より熾烈な市場の牙の洗礼)を浴びせられる可能性が高まると思われるのです。


また、今まで安定的に公共が提供してきた社会基盤(インフラ=道路・空港・港湾・橋梁のみならず上下水道・ガス・電力等のライフライン、および教育・医療・福祉等も含めた広義のインフラ)が「市場原理主義の牙」を剥く「資本主義の暴走」によって危機に晒されつつあり、しかもその問題への解決方法が見つからず混迷が深まっていることを7月22日に放送されたNHKクローズアップ現代『ファンドが“インフラ”をねらう』(参照、http://www.nhk.or.jp/gendai/)が取り上げています。それによると、市民の日常生活を支える社会基盤を「儲け話の投資対象」として投資ファンドが買収する動きが活発化しており、年金資産などを集めた機関投資家や様々なファンド資金が、安定的な収益を求めてこれらの公的インフラへ流れる動きが加速しています。そして、今や、日本でも財政赤字に悩む地方自治体などが持つインフラを、ファンドが買収しようとする動きが強まっており、ここでは「投資家」としての我われ自身と「公共による安定を求める市民」としての<我われ自身の深刻な分裂現象>が浮上しており、まさにこの点はロバート・B・ライシュの問題意識(後述)に重なります。


ところで、このロバート・B・ライシュの著書でもう一つの大きな特徴といえるのは、「資本主義vs共産主義」のイデオロギー論争で資本主義が一方的に勝利したと見なされたことが、アメリカの民主主義が後退した原因の一つであると明快に抉ってみせたことです。まことに皮肉なことですが、冷戦構造時代の政治的な意味で「強かった米国政府」が影を潜める代わりに、今や一部の大企業や有力企業が政治献金と活発なロビー活動を梃子に軍事・諜報部門も含めた米国の国家システムそのものを支配しており、反比例的に労働組合と監督諸官庁のパワーが低下しつつあり、結果的にアメリカの民主主義が甚だしく劣化・後退してきたと述べています。この辺りには、エシュロン(世界で最大・最強の防諜システム/参照、http://tanakanews.com/a0302echelon.htm)を装備しながら、なぜ米国政府は「9.11同時多発テロ」を防げなかったのかという悩ましい問題にも、極めて根深い所で繋がっているように思われます。


なお、5兆円規模の防衛利権の中枢に10年以上もの長きに渡ってたかり続け、今回、漸く逮捕された“防衛フィクサー”の秋山直紀・容疑者の問題に対しても、同じような「日本の民主主義の劣化」という観点から厳しい市民の目を向け続けるべきです。なぜなら、秋山直紀容疑者は、国益と人権のバランスの実現を図るべき国会機能が麻痺した日本政治の中枢に寄生していたという意味で謂わば『国益政治屋もどきゾンビ(血税を吸い続ける死霊)』に他ならず、政治の中枢であからさまなロビー活動を繰り広げる米国の産軍複合体よりも<より悪辣で面妖な存在>だと思われるからです。しかも、この温床となってきた「日米平和・文化交流協会」に鎮座する<底なしに腹黒い利権屋政治家>どもを徹底的に退治できなければ、日本が「暴走資本主義国家・アメリカ」よりも重篤な「擬似民主主義ゾンビ国家」(情け容赦なく国民の人権が貪り食らわれる、国民主権による制御不在のゾンビ国家)と化す恐れがあるからです(下記★を参照乞う)。


★「防衛予算に巣くう利権屋を排除」 秋山専務理事逮捕、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080725-00000900-san-soci


また、ほぼ時を同じくして、2006年の「世界政治学会」(第20回世界大会、in 福岡、http://tokyo.usembassy.gov/fukuoka/j/fj-20060713.html)が、地球上の各地で民主主義への大胆な評価の見直しが始まっているとの認識の下に、そのテーマを「果たして、いま民主主義は世界で機能しているか?」とし、もはや現在は民主主義を「共産主義」の対語として語る時代ではなく、民主主義そのものの根本的な機能のあり方を再検証すべき時代になったと確認したことにも注目しておく必要があります(情報源:上掲書、“雨宮 寛氏・訳者あとがき”)。


その上、この著書の中で明言はされていないものの、ロバート・B・ライシュは、現在のアメリカの「超資本主義(市場原理の牙を内装して市民の人格権と生存権を破壊しつつある資本主義)の改善・改革方法」と「新たな民主主義のあり方の設計」について、暗に、日本やEU(欧州連合)が、現在のアメリカ政府の勧めるがままに、そのシナリオの全てを鵜呑みでコピーすべきでないことも示唆しているように思われます。つまり、アメリカにとっては“あくまでも自由の価値を頑なに重視せざるを得ない独立・建国いらいのベーシックな処方箋”が必要であると同様に、千年を遥かに超える悠久の歴史時間の流れの中で培われた洗練された日本文化と東アジアにおける地政学上の諸条件に裏づけられた「日本らしい新たな民主主義の理想像」をデザインすべきだということです。従って、ここでも我われは、アイルランド国民がリスボン条約批准を否決した重要な意味を想起すべきです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080622http://www.asahi.com/international/update/0721/TKY200807210254.html)。


(『暴走する資本主義』のエッセンス)・・・(   )内は、toxandoriaの加筆部分


1970年代以降、米国の資本主義は暴走し始め、グローバリズム時代の我われは今や「超資本主義」と呼ばれる時代に入っている。その特徴を端的に言うならば、否応なしに我われはA「消費者&投資家」(ウオルマートなどの量販店で、より廉価な商品を求めて買い漁ったり、よりリターンが大きいハイリスクの投資信託を買求めたりする“あなた”)とB「民主主義を構成する市民社会の一員」(より公正・公平・安心で安定した公共サービスを求める“あなた”)という相矛盾する二面的性格をハッキリと併せ持たされること(つまり、現代市民は自己矛盾的で分裂した存在であること)になり、しかも過剰に側面Aの方向へ傾斜させられつつあるということだ。


そして、公共の利益・価値・役割を追求すべき市民としてのパワーは弱まる一方で、「労働者」の主権(人格権)を守るべき「労働組合」も、“公正を守るべき役割を担いつつ中立・公正が求められる”「監督官庁」の力も劣化しており、激しい競争に明け暮れる市場環境ゆえにこそ自らが企業活動を通じ率先して民主主義社会を導くという見識が高く理想に燃える「企業ステーツマン」も存在しなくなった。


しかも、民主主義を進化させるべき役割を担う「政治の世界」も超資本主義のルール(日本の小泉・元首相や竹中・元財政金融担当大臣らが大いに好むような米国型の規制緩和と市場原理主義)にドップリ漬かっており、もはや政治は一般市民の方ではなく、しこたま政治献金をしてくれる企業(気前よくカネを渡してくれる企業)の方だけを向くようになっている。


しかし、我われはA「消費者&投資家」だけでいられ存在ではなく、日々の糧を稼ぐべき「労働者」でもあり、かつ、より良い社会を創るべき義務を負う理想高き啓蒙思想の衣鉢を引き継ぐ「市民」でもあるはずだ。つまり、この「超資本主義」(=暴走する資本主義)は労働者と市民を蔑ろにするだけでなく、啓蒙思想に始まる民主主義社会そのものを劣化させつつあることが大問題なのだ。


従って、我われは、この「暴走する資本主義」(新自由主義思想の落とし子たる市場原理主義の牙)がもたらす社会的な意味での負の側面を積極的に克服しつつ、より「強く新しい民主主義のルール」と「負け組みの人々が復活するためのルール」を再構築する目的での「変革」(CHANGE)に取り組まなければならない。そのため、我われは、現在の「超資本主義のルール」にこだわらず、そのルールそのものを変えることに果敢に挑戦しなければならない。


たとえA「消費者&投資家」としての我われ自身の利益が減ることになるとしても、「暴走する資本主義」(=超資本主義)が求めるままに、あるいは「規制緩和と市場原理の牙」が求めるままそれに身を任せるのではなく、確実に、新たな「再生・民主主義社会を構成する市民」としてのパワーを政治に付け加えつつ、臨機に「労働者&市民」の主権(人格権、データ主体権、生存権)を守り、また取り戻すべく、国に新たな法律を制定させ、<公共>の価値を優先させるために必要な規制を加えるべきである。


(市場原理主義の牙について/ロバート・B・ライシュによる、目立った検証事例等の抽出)


●アメリカでは公教育の予算不足から体育・美術・音楽の時間が消えつつある
・・・設備予算の不足だけでなく、これらの教科を教える教師を雇用する予算がないため。→日本における、薄給(NHK報道によれば時給・約2,500円!)で身分不安定な小中学校における非常勤講師の増加現象に似ている(教員構成の約5割に接近中!)。


●同じく、公立学校の給食を賄う予算不足のためマックのようなファストフードが給食システムとして採用されつつある
・・・必然的に、中流以下の地域の子どもたちにジャンクフード型の肥満が増えている。


●これら悲惨な子供の教育環境を脱するため、年収比7〜10倍の無理なローンで移住した家庭の破産が多発している


●アメリカの金融業界全体の収益は、1970年代〜1980年代は非金融部門の収益の1/5程度だったが、2000年以降は1/2まで増加した


●アメリカの労働組合の組織率が著しく低下した結果、労働者の賃金や福利厚生の向上を求める交渉力が明らかに低下した
・・・1955年時点で、民間部門の米国労働者の1/3以上が労働組合に属していたが、2006年のその割合は8%まで下落した。


●一方、消費者は寛大な労働組合協定を反映した商品の高い価格を支払わなくてよくなった
・・・しかし、消費者や投資家たる我われが、より安い商品やよりハイリターンの投資信託を要求するとき、その裏側では劣悪な条件と低賃金で働く労働者、いきなり解雇された労働者、健康保険・失業保険・労災保険などの安心を失った労働者の存在など悲惨な労働環境が生まれつつあることを忘れてはならない。


●例えば、ウオルマートは反組合の先鋒であり、従業員が投票で組合を結成したカナダのある店舗を閉店してしまった
・・・また、ウオルマートが食品や医薬品に扱いを広げてきたので、食品や医薬品の専門店は従業員の賃金を切り詰め始めた。
・・・しかし、ウオルマートはモノが安いから何百万人もの人が買い物をするのだ。ということは、ウオルマートは私たち自身が犯した罪のせいで非難されているのではないか? 
・・・ウオルマートの創出者サム・ウオルトンもその後継者たちも、別に我われの頭にピストルを突きつけて、ウオルマートで買えとか、ウオルマートの株を年金資金で買えとか言ってる訳ではなない。
・・・ウオルマートを地元商店街の生血を吸っていると非難する人がいるが、ウオルマートは火付け役ではない。音をたてて生血を吸っている怪物は、実はウオルマートに群がる消費者なのだ。


●消費者および投資家としての我われを獲得するための激しい競争は、経済全体の生産性を高めることになり、CEO(最高業務執行者)や財務責任者は勝ち組になるために、現金・機械・工場などの資産を最大価値を生み出すことに利用しなければならなくなった
・・・そのために何百万という人を異動・転勤させ、レイオフし、降格し、昇進させることになった。


●経済上の安心、社会的公正、地域社会、ともに暮らす環境、世間の常識といった問題は、かつての民主的資本主義においては関心事であった
・・・しかし、それらは今も「市民」としての我われの関心事である。が、権力が「消費者」と「投資家」の手に過剰に移ってから、これらの問題は影が薄くなってしまった。


●つまるところ、消費者や投資家としてのすばらしい取引は、いったいどこから来たと考えればよいのか?
・・・その一部は「低賃金」と「劣悪な労働条件」からである。低い賃金や福利厚生に甘んじなければならない労働者、安い給料の仕事に頼らざるを得ない労働者がもたらしてくれたものだ。


●米国の経済全体が過去30年にわたって力強く成長しているのに中位家計の実質収入が伸びていないが、その富はいったい何処へ行ったのだろうか?
・・・ほとんどが最上位へ行ったのである。2004年に米国の所得分布上位の1パーセントの人だけで国の総所得の16パーセントを受け取っている。1980年には総所得の8パーセントだったから、倍増したことになる。
・・・所得上位の0.1パーセントの人の所得は総所得の7パーセントを占め、こちらは1980年と比べて3倍になった。所得階層で95パーセントに入る人々の1978年から2004年にかけての所得の伸びは、年平均1パーセントに満たない。賃金格差は欧州や日本でも起こっているが米国ほど大きくはない。


●こうした傾向は1970年代に始まり、その後ますます顕著になっている。これは、20世紀に始まり、1950〜1960年代の民主主義的資本主義の黄金時代に頂点に達した所得格差の縮小とちょうど反対の動きである。
・・・2005年には、上位1パーセントの人々が1929年以降でもっとも大きなシェアを取った。多額の金が配当収入の形で、すでに裕福な人々の懐へ吸い込まれている。が、このことだけが最近の傾向における問題ではない。


●所得階層で上位0.1パーセントの人々が2001年に税として申告した830億ドルの内訳を調べたところ、その半分以上を占める480億ドルが米国企業の高額所得上位5人までの役員所得の合計額であることがわかっている


●所得格差の顕著な拡大傾向が、CEOと平均的労働者との報酬比較で見られる
・・・民主主義的資本主義の黄金時代における米国大企業のCEOは平均労働者の25〜30倍の報酬を受け取っていたが、1980年代の格差は約40倍に、1990年は約100倍の、2001年は実に約350倍に拡大した。


●ある推計によると、民主党支配の議会に対する企業の依存性は、民主党の方にも企業からの献金に依存する結果をもたらした。そのことは、1994年に敗れる数ヶ月前、多くの民主党議員がビル・クリントンの医療保険制度に反対したことからも明らかだ。彼らの企業スポンサーが法案に反対だったからである。


(世論と輿論の作為的混同、それを甘受する政権与党と日本の御用マスゴミの犯罪)


ロバート・B・ライシュは、第一期クリントン政権の労働長官を務め、現在はバラク・オバマ民主党大統領候補の政策アドバイザーを務めています。このため、この著書には大統領選における民主党オバマ候補のプロパガンダと“アメリカ流の自由至上主義的な思考癖”のような空気が漂う(例えば、経営上の失敗責任をCEOら個人に負わせて無垢の労働者の職(仕事)を救済するため法人税をゼロにする一方で、株主を含めた厳格な所得課税中心主義へ税制を変えるべきだという主張など)ことも確かです。が、少なくとも、アメリカ大統領候補が「暴走する超資本主義=超資本主義」というコトバで、<市場原理主義の暴走がもたらしたアメリカの「政治、経済」および「軍事的行き詰まり(イラク戦争)」の最も根源的で悪魔的な部分>を一種の正義感に近い危機意識で鋭く抉っていることに共感を覚えるものがあります。そのようなブッシュ共和党政権の根源的・悪魔的・錯誤的な部分を「変革する」というのが、オバマ候補のキャッチフレーズ「CHANGE」の意味です。


従って、オバマ大統領候補が、ヒラリー・クリントンと指名競争を争った民主党代表戦の時にオバマが使ったキャッチフレーズ「CHANGE」と日本のテレビドラマ「CHANGE」(フジテレビ系、仕掛け人とされる飯島・元首相主席秘書官の思惑どおり異様なほどの高視聴率で放送終了)では、その「CHANGE」の意味する内容がまったく異なります。このキムタク主演のテレビドラマ「CHANGE」は、再び、意図的にB層受けが良く国民的人気度が未だに高い(とされる?)「小泉劇場」リバイバルの世論形成(キムタクゆえの高視聴率を利用して)を狙ったという意味で、まことに不見識な日本の御用マスゴミの時代錯誤ぶりを露呈しています。つまり、小泉・元首相らが「米・第七次対日規制改革要望/評価」に沿った方向へ再び日本国民をミスリードしようと工作した「茶番劇、CHANGE」であったという訳です。(一部のマスゴミが加担した、このミスリード工作の詳細は下記▼を参照乞う)。


▼2008-07-04付toxandoriaの日記/オバマがサルなら、TVドラマ『CHANGE』で“再登板を画策”する小泉(元首相)はゴリラ?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080704


現代の学校教育では世論の読み方は「せろん」と「よろん」のどちらでも良いことになっていますが(1946年・告示の当用漢字表で輿論は制限漢字とされた)、そもそも「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」は意味が異なるコトバです。メディア論の佐藤卓巳氏(京都大学・準教授)によれば、明治期の福沢諭吉は、この二つを峻別しようとしていたようです。つまり、「せろん(世論/populer sentiments)」は“世上の雰囲気・空気”のことで、「よろん(輿論/public opinion)」は“責任ある公論”のことです。別にいうなら、前者は“世間一般の感情・情念がもたらす雰囲気に流された個人の発言内容”(ファシズム体制は、一人ひとりの市民がこの空気に抗い難いことを利用する!)であり、後者は“自他の主観体験の違いを切実に感じつつ、例えば「勝ち組」と「負け組」の溝をどのように埋めるべきかを論理的、倫理的に考えた発言内容”だということです(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/honestly_sincerely/44885781.htmlほか)。


ところが、「小泉劇場」と「安部の美しい国」におけるメディア主導のバカ騒ぎで明らかとなったように、これら二つのコトバが日本国民の間で混同されている事実を十分承知の上で、日本のメディア(特に民放テレビ)は「よろん」に訴えるべきシビアな政治問題を「せろん」操作で一般国民の目をごまかしてきました。そして、メディアは「せろん調査絶対民主主義」の如き異常な空気を世間にバラ蒔きながら、「小泉劇場」、「安部の美しい国」、「死んだふり福田内閣」という錯誤的で無責任な犯罪的政権と一蓮托生の道を選びつつ、これらの政権に媚びた提灯記事を書く一方で、もっともらしい「世論調査、支持率調査」で善良な日本国民を煙に巻いてきたのです。従って、このキムタク主演のテレビドラマ「CHANGE」(小泉劇場の元首席秘書官・監修)が、そのような日本のマスメディアの勘違いの産物であることは明らかです。のみならず、これが、もし彼らの勘違いでなく本気であるとするなら、大方の日本のマスメディアは「ファシズム体制」の実現のために政治権力の世論操作に率先協力してきたことになり、それは民主主義国・日本に対する犯罪的な行為です。


ところで、このロバート・B・ライシュの著書『暴走する資本主義』の中に、「企業」(企業のカネ)の大きな影響を受けるようになった米国政府が、必然的に“メディアや御用学者を使った、知識・情報の買収による世論操作を行う”ようになる経緯と背景を的確に纏めた部分があるので、以下に転記しておきます。このくだりを読むと、現代日本の錯誤的で無責任な「中枢政治をめぐる提灯メディア(マスゴミ)と御用学者のもたれ合いの構図」は、国民一般を徹底的に欺くための共謀的なシステムに見えてきます。従って、国民主権に背き、日本の国益を毀損しつつあるという意味で、このような「彼らの凭れあいの構図」こそ「共謀罪」の名で糾弾・告発されるべきです(出典:同書、p215)。


『政治が企業(企業のカネ)に支配される(政治が企業のカネに寄生する)ようになると、人々が世の中の問題をどうとらえるかにも影響(企業のカネの)が出てくるようになる。ロビー活動とは、自分側(企業のカネと結託した政権側)の意見がいかに英知に満ちているかを証明する(世論に対し彼らが分かるように話す)ことであり、しばしば経済学者や政策アナリスト、データ収集者、大量の数字と格闘する人たちの力を必要とするし、また、どんな結論をも合理的に見せるような言葉の達人も必要だ。議員たちは、世間一般に対して幅広く、とまではいわないまでも、猜疑心が強く利益供与に対して(自らに対する利益供与にも)とても敏感なメディアに対しては、自らの判断をきちんと正当化できなければならない。規制官庁も、彼らが独断的に行動していないことを判事(司法)に説明しなければならない。このように、いずれの論争においても、みなそれぞれに最善の論理武装をしなければならないので、多額のカネを用意して、半分ぐらいしか真実でないような、時には明白なごまかしであるような議論を専門家(御用学者ら)につくらせ(共犯的かつ暗黙のうちにメディアを納得させ)ることになる。その結果が広範囲(メディアも含めたという意味で)に及ぶ買収である。つまり、知識(および情報&操作情報)の買収だ』((  )内はtoxandoriaの補記


(まとめに代えて・・・映画『告発のとき』を観た感想)


このロバート・B・ライシュ著『暴走する資本主義』を読み終えて連想したのはポール・ハギス(Paul Haggis)監督・脚本の映画『告発のとき』(実話を脚色した作品)です(7/25、鑑賞)。この映画の主人公ハンクは退役軍人で元・軍警察(憲兵)に所属したキャリアの人物です。ハンクは、イラク戦争で出兵していた彼の次男(長男は兵役中に事故死)が帰国直後に失踪したという連絡を受け、なぜか不審に思いつつ次男の消息を自ら追跡・調査する“謎解きサスペンス仕立て”のストーリーです。Tommy Lee Jonesが演ずるハンクは、どんな些細な事実(証拠、ドキュメント、エクリチュールの痕跡)でも見逃さず、その確認と検証を確実に積み上げる緻密な捜査手法で元・軍警察(憲兵)であったハンクの重厚な存在感と限りない肉親(次男)への父親の愛情を見事に演じて見せてくれます。


やがて、個人的な捜査活動が進む過程で重要な協力者となってくれる民間警察の女刑事エミリー(Charlize Theron演ずる、未だ幼い子供を抱えるバツイチ女性)の縦横無尽の男まさりの活躍も見ものです。これ以上の詳しいストーリーを書くとネタバレで“この映画の謎解きサスペンス仕立ての面白さ”を損なうことになるので止めておきますが、もう少しだけ物語に興味がある向きは下記★を参照してください。


★映画生活/告発のとき、http://www.eigaseikatu.com/imp/20454/384022/


それはともかくとして、この映画は「ブッシュの戦争=イラク戦争=余りにも異常な狂気の戦争」の非人間的で悪魔的な醜悪さをラストシーン辺りで観客の心に突きつけてきます。フリーダム(自由)の信奉による世界平和の実現への情熱と愛国心に燃えて祖国アメリカに命を捧げたはずの愛すべき肉親(次男)の<その純粋な感情と人格>が、「多元的な彼我の違いと弱者の存在を無視する狂気に取り憑かれたブッシュのイラク戦争」によって無残に踏みにじられたことを悟った主人公ハンクの静かな内面の怒りが観賞者の心に痛みを伴って滲みてきます。


そして、そのような痛みと弱者への憐れみの感情移入は、過酷な運命に弄ばれ悲惨な戦争の犠牲となったイラクの多くの無辜の子供たちへと向いて行きます。その意味で、まさに、このアメリカ映画『告発のとき』は<ブッシュ政権のアメリカ合衆国の救い難いほどの狂気にまみれた誤謬と錯誤>を告発しているのです。そして、この点こそが、ロバート・B・ライシュの著書『暴走する資本主義』が糾弾する「市場原理主義の牙を剥くアメリカ政治の暴走(その狂気の如き現状)」に見事に重なると思われます。


しかも、そのアメリカでは少なくとも国民の7割程度が「ブッシュのイラク戦争が間違っていた」と見なしており、肝心のブッシュ政権も今までの政策の誤り(開戦時の情報分析の誤りなど)について、国民一般とメディアの追求に応じ、ある程度までそれを受け入れ、政策転換を模索してきています。一方、我が国では小泉・前首相とブッシュ大統領が肩で風を切っていた「イラク戦争開戦時」の頃の空気がそのまま今も継続しています。そして、小泉・前首相を始め“美しい国”の安部・前首相、“死んだふり”の福田首相らも「ブッシュのイラク戦争が間違っていた」と明言するすることはなく、このことに対するメディアと国民世論一般からの追求もおざなりであり、熱心な反戦運動に参加する一部の人々の見識ある声高な叫び声が悲しげに木魂するだけです。


このような、この戦争の当事者であるアメリカと日本との甚だしい差異はどこから来るのでしょうか?おそらく、我が国では政治が企業のカネに寄生すると同様に、日本社会の隅々まで“寄生と凭れ合いの病理現象”が蔓延っているからかも知れません。それは、「せろん」(populer sentiments)と「よろん」(public opinion)を混同したままに放置する、日本社会の「底なしの曖昧さ」の問題と関係することかも知れません。いずれにせよ、このような意味でも日本の民主主義は危機的状況の(ファシズムの芽を抱えた)ままです。


因みに、3年前の記事(下記▼)でも同様のことを書きましたが、改めて読み直すと、その内容がそのまま今でも通用することに呆れ果てます。むしろ、「ブッシュ時代のアメリカ」の顔色を窺うあまり我が国の政治と民主主義の曖昧さが更に深まり、相変わらず「小泉劇場→安部の美しい国→福田・死んだふり内閣」という<小泉好みの三文オペラ>を延々と演じており、ダラケ切り、無気力で、マスゴミ化した大方のメディアが飽きもせず提灯記事を書きまくっている分だけ「日本の民主主義の危機」(ファシズム発症の可能性)は重篤化しているようです。


“まとめの落ち”として、当記事と関連がある部分だけを下に再録しておきます。これを読み直してみると、もはやブッシュ時代に犯した失敗に気づいたアメリカ自身が果敢に「CHANGE」しようとする時に、綿々として、いまだに未練がましくブッシュ時代の「小泉劇場流・サルのマスタベーション」に付き合う日本政府(=寝たふり福田内閣)のバカバカしさが見えてくるはずです。しかも、その凡そ6年間の<三文オペラ劇場>の唯一の確実な成果が「日米平和・文化交流協会」(秋山直紀・専務理事)に鎮座してきた<底なしに腹黒い利権屋政治家=国益政治屋もどきゾンビ(血税を吸い続ける死霊)>どもの巨額の私腹肥やしであったというのでは、そのブザマさはまさに噴飯物以外の何ものでもありません(一部に加筆・修正あり)。


▼2006-01-12付toxandoriaの日記/「サルのマスタベーション」化するマルチチュードの世界、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060112


『 約5年前の世界を舞台にブッシュ大統領と小泉首相が手を携え合い肩で風を切った颯爽たる姿を見て想像させられたのは「サル(or ゴリラ)のマスタベーション」という“一種のエンドレス神話が象徴する権力者の退廃”です。今や、世界は「政治・経済が戦争の婢」という倒錯した状態です。しかも確たる終息の展望が見えず、「際限なき殺戮と闘争の状態」(In The Valley of ELAH / 旧約聖書・サムエル記によるイスラエルとペリシテの闘い/映画『告発のとき』の“原題”が象徴する状態)が続くばかりです。つまり、我われ一般市民が、目に見えぬ巨大な権力によって、あらゆる角度から伸びる無言の触手によって絶えず参戦を強制されるようになったという意味で、今や目に見えぬ暴力性を帯びた「生政治」(バイオポリテクス、http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/biopolitics.htm)へ突き進んでおり、世界は消耗するばかりです。


[f:id:toxandoria:20080726153758j:image:right]その実態は、デーヴ・グロスマン(Dave Grossman/http://en.wikipedia.org/wiki/Dave_Grossman)が一定の国際法の下で戦った兵士たちから膨大な証言を集めて著した名著『戦争における人殺しの心理学』(安原和見・訳)の知見(下記、・・・〜・・・)が書き留めていたことです。今や、このデーヴ・グロスマンの言葉は、経済と一体化した戦争という意味で理解すべきなのかも知れません(画像はhttp://ore.to/~babylon/blog/archives/2005/03/post_114.htmlより)。


・・・兵士たち(その証言が本書の根幹をなしている)は戦争の本質を見抜いている。彼らは「イーリアス」に登場するどんな人物にも劣らぬ偉大な英雄だが、にもかかわらず、本書で語られる言葉、彼ら自身の言葉は、戦士と戦争が英雄的なものだという神話(セレブな神話)を打ち砕く。他のあらゆる手段が失敗し、こちら(兵士たちの側)にその「つけがまわって」くる時があること、「政治家の誤り」を正すため、そして「国民の意志」を遂行するために、自分たちが戦い、苦しみ、死なねばならぬ時があることを、兵士たちは理解している・・・


  しかも、日本では、この終わりなき闘争状態(生政治に絡め取られた社会)の中から二極化(貧富差拡大)を前提とする「新しいタイプの投機型経済(投機型セレブ経済?)を奨励する公的な意志」(参照、既述の「08年・経済財政白書」)が見え隠れしています。その本末が逆転した倒錯ぶり(実態経済と投機の序列・役割が転倒している)はまことに恐るべきことです。これは、もはや旧来型の戦争による破壊を経済活力の道具とする「古典的スクラップ&ビルト経済」ですらなく、詐欺・ポンジー(ねずみ講)的な金融工学技術の活用で「二極化(貧富差拡大)」を更なる活力源と見なす「パラサイト(寄生型)経済」を奨励するスタンスです。実は、これはサブプライム・ローン問題の核心であったはずなのですが・・・。


  このような観点から考察すると、例えば小泉・元総理大臣らが拘ってきた「靖国神社参拝」も「サル(or ゴリラ)のマスタベーション」のように見えてきます。すなわち、小泉・元総理大臣はブッシュ大統領への忠誠心を示すための「終わり無き戦争への賛同」とセットで「セレブな虚妄のパラサイト(寄生型)経済」を「小泉劇場で自作自演」して見せたことになります。まさに、これは、“寄生型ゾンビ政治家”(ヒトの姿形に良く似ていながら、実はヒトの心(感情と知恵)を持たぬという意味でのゾンビ)のナルシシズムが跋扈する、ゲにおぞましい姿です。』