資本はすべての意識を食いつくす - 辺見庸の新日曜美術館から
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5/25に放送されたNHKの「新日曜美術館」に辺見庸が出演して、マリオ・ジャコメッリ の写真について論じていた。ご覧になった方も多いと思う。この番組での辺見庸のオーラルは素晴らしかった。今、日本の知識人の中で最も水準の高いオーラル・パフォーマンスを見せてくれるのは五木寛之だが、辺見庸は負けていない。視点が鋭く、言葉が深く、語りに惹き付けられて離れることができなかった。NHKの演出がよかったこともあるが、辺見庸の口から出てくる一つ一つの説得力に心を捉えられて身動きができなくなる感動を覚えた。飯田橋のカナルカフェの堀端を老人然と歩いている姿が映され、片足を少し引き摺っている様子が見られたが、話す言葉や表情には脳出血の後遺症は全く感じられず、また大腸がんの大病を患った直後の人間のようにも見えなかった。辺見庸は思っていたよりずっと元気で、以前と同じように精神は剛健で果敢であり、時代と社会を深いところで突き刺す思惟の力に力強いエネルギーが漲っていた。

資本はすべての意識を食いつくす。現代において資本は労働力だけでなく人の意識まで収奪の対象にする。半年前に本屋で立ち読みした『たんば色の覚書』にも同じ内容のことが書かれていて、印象に残ったのでそのときブログの記事で触れていた。「今ではテレビは人間の意識そのものだが、そこでなされているのは意識の排泄である。資本は絶えず新しい意識を取り込んで排泄する。メディアは人の意識を収奪して、人の体調まで決定づける。そういうメディア資本との腐れ縁の中で人は生きている。テレビ・メディアをどう考えるかは同時代の最大の課題である」。そうした辺見庸の言葉に私は一つ一つ頷いて納得し、辺見庸がそういう言葉を発せられるのは、辺見庸の中に資本から自由な生き方を求める強靭な精神があり、メディア資本が醸成する「意識」と自己との間に緊張感を持っているからだと悟る。そういう緊張感を持っているかどうかが、その人間が知識人であるかどうかの決定的なメルクマールであるに違いないのだ。

ネットのBLOGだけでなく、立派なアカデミーの学者の肩書を持った人の発言でも、メディアが垂れ流す画一的な「意識」と自己との間に内面的な緊張感を持っている人間は少ない。むしろ多くの著名学者が積極的にラジオやテレビに出演して、ギャラを貪って「意識」の排泄運動に加担している。辺見庸には「資本の食いものにはならないぞ」という屹立した精神性がある。例えば、テレビの政治番組でも、少し緊張感を持って見れば、資本が「関心」を醸成していることが分かる。視聴者はテレビ局に「関心」と「基準」を植え付けられて、常連の出演者が発する情報に感覚反応する「消費」をさせられている。視聴者は三宅久之と同じ思考回路をインプリメントすることで、その政治番組の情報に快感を覚える「消費者」となる。番組を次も見るリピーターになる。民放の政治番組は商品であり、その視聴者は資本によって画一的な消費性向を彫り込まれた消費者なのだ。ロボトミー。視聴者は三宅久之が自分の代弁者だと思い、その粗暴な罵倒と恫喝に喝采する。

例えば、オヤジという言葉がある。90年代の初めごろからメディアを通じてその観念が普及浸透し定着した。日本の男はオヤジになり、オヤジの表象と属性に自分から身を合わせ、オヤジの生き方を家族や職場の周囲に振る舞って生きていかなくてはならなくなった。「チョイワルオヤジ」などというスタイルがある。資本によって醸成され市場的に確立された人間類型であり風俗現象だが、そこには思想的な意味がある。具体的な感性や態度のイメージがあり、さらに、政治思想的にもある傾向を帯びた人間性であることが察知感得できる。オヤジの人間類型への翼賛や帰依や屈服は、日本の男から知性的で主体的な精神性への志向を奪い取り、それを無意味なものにして、日本の男が内面に持っていた気概や矜持や理念を融解させ武装解除させた。これは、思想的な源流を辿れば80年代の「お笑い」に行き着くはずで、ビートたけしの弟子の東国原英夫が政界の人気者の頂点に立っている謎に思いを馳せることができる。日本の男が、時代に癒着せず資本から距離をとって生きようとすれば、オヤジの言葉や人間像を安易に肯定したり前提してはならない。

拒絶しなくてはならないはずだ。例えば、辺見庸には「オヤジ」的な決めつけ事(プロトコルの承認前提)を認めない態度が明らかにある。男だけではない。それは女にもある。例えば、熟女という言葉がある。昔はなかった。20年前から、日本の女はギャルになり、娘はコギャルになり、中年女は熟女になった。抵抗せずにそのライフスタイルを受け入れた。「アンチエイジング」にも資本の臭いは強烈に漂う。「ジェンダー」の意識は資本と癒着してないか。顔文字が氾濫するBLOGの記事はどうか。2ちゃんねる言語がそっくり普遍化され標準化された匿名コメントの揶揄と罵倒と嘲笑の一行書きの表現様式はどうか。男も女も自分のBLOGの表面にネコやイヌの写真を貼り付けて喜んでいる自己表出様式はどうか。ネコやイヌの写真をプロフィールに貼り付けないとBLOGにならないのは日本だけの特殊な思想現象ではないのか。外国人が見たら驚くのではないのか。単なる流行以上の、笑って済ませられない本質的で深刻な問題系があるのではないか。特に脱構築左翼だが、それを否定的なものとしてではなく、積極的なものとして受け入れていることに病理性を感じることはないか。

辺見庸のメディア資本論を聞きながら思うことだが、ネットの資本性とかネットの権力性とかいう問題にも、もう少しわわれわれは感覚を研ぎすますべきではないのか。不感症に過ぎる。確かに現状ではBLOGの価値形態はアクセスカウンターの数値であり、あれほどマスコミに露出しているタレント政治家の山本一太でさえも自身のBLOGのアクセス数を気にして、それを少しでも増やそうと一心不乱になっている。が、例えば、「人気ブログランキング」というのは誰が運営しているのか、そこで数値が出されるアルゴリズムは本当に正確なアクセスを反映しているのか。「2ちゃんねる」や「はてな」は誰によってどのように管理運営されているのか。2ちゃんねるのいかがわしさは誰でも分かるが、BLOGやネットを市場化している裏に隠れた者たちのいかがわしさも尋常でないものがある。また、「ウィキペディア」の記述の偏向性は言いようもない。政治や社会に関する項目のほとんどは右翼や新自由主義者の観点から一方的に書かれている。ところが、ブログ左翼の多くの者がネットは自分たちのものであり、自由で公平で公正な情報装置だと錯覚していて、記事の中に平然とウィキペディアを引用している。

無知と軽薄が甚だしい。