呪術信仰の政治とシミュレーション − 「政権交代」は即ち「政界再編」
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インターネットの中では相変わらず小沢擁護を絶叫する信者の喚声が喧しい。「真の改革」などという懐かしい言葉も聞こえてくる。「改革」が新自由主義の経済政策の総体を意味する言語である真実が暴露された現在、すでに日本語としての「改革」そのものが人々の意識の中で揚棄されつつあり、すなわち「改革」に「偽」も「真」もなく、単に操作目的の詐術用語としての胡散臭さだけが語の表象に纏わりついているこの時期に、地に墜ちた政治言語にもう一度魂を吹き入れようとするアナクロな努力は空しく反動的ですらある。民主党ですら「改革」はもはや口にせず、その意味を訴求したいときの新しいスローガンは「change」の日本語である「変革」だろう。思えば、小泉信者が「改革」の虚偽と欺瞞に気づくのには相当な時間がかかった。どれほど「改革」が嘘であり、小泉改革への支持が自分の首を絞める自殺行為だと説得しても、人はそれに耳を貸さず、小泉純一郎と竹中平蔵による「真の改革」を信じて自ら積極的に痛みに耐えようとした。

私は最初から小泉政権の「構造改革」は単なる新自由主義の法制化だと見抜いていたから、それを暴露する論陣をネットで(ブログの形式では4年前から)張っていたが、当時はそのようなブログなど一個も無かった。ネットの中もマスコミ以上に小泉改革礼賛が圧倒的だった。大衆が政治家に騙されている真実に気づくのには時間がかかる。なぜ時間がかかるかと言えば、信じた自分を否定できないからである。小泉純一郎の「改革」を否定することは、それを信仰した自己を否定することに繋がるからだ。名前は挙げないが、最初は自分は小泉改革を信じて期待していたと言った人間を何人か知っている。いずれ、同じように小沢一郎の「政権交代」に騙されたと臍を噛む人間が多数出るだろう。信じる前に疑わないといけないのだが、巧い投機話のセールスと同じで、信じやすい人間は簡単に信じてしまう。特に有名人が広告塔になって甘い囁きで宣伝していると簡単に確信してしまう。私がネットで次の自慢話をするのはいつだろうか。騙された人を嘲るのが目的ではなく、騙されないように注意を促すのが本意であるけれど、騙される人間はやはり騙される。

一度信じた自分を否定できなくなるのである。詐欺商法に自分自身で合理的で整合的な正当化理由をつけてしまう。投機話が嘘だよと丁寧に説得しても、必死でそれに抗う反論材料を探すのである。小泉純一郎と竹中平蔵の「改革」が長きにわたって生き続けて、(国民生活は年々苦しくなっているのに)政治的正統性を衰えさせなかった本当の秘密はそこにある。政治学のイデオロギー論の視角で分析するしか解は出ない。昨年の11月、あの大連立騒動が起きた後でも小沢一郎の「政権交代」はシンボルとして信者の中で失墜することなく生き続けた。小泉純一郎の「改革」があれほど長生きしたのは、単にマスコミが上から情報操作したからという側面だけでは説明できない。マスコミが小泉改革を絶賛し続けなければならなかったのは、大衆の中の小泉改革信仰が分厚く強固で、マスコミもそれに迎合せざるを得なかったからである。小泉を支持した。所得が減って負担が増えた。それでも支持した。もっと生活が苦しくなった。それでも痛みに耐えればバラ色の未来があると信じて支持した。そのとき、彼はすでに小泉を信じているのではない。小泉を信じた(信じて耐えた)自分を裏切れないのだ。

宗教とはそのようなものであり、詐欺商法も同じパターンである。小泉改革は結果が出て破綻が誰の目にも明らかになったから、だから人は「騙された」と口にするようになった。小沢一郎の政権交代はまだ破綻が明らかになっておらず、徐々に怪しげな本質が見え隠れしてはきたが、誰の目にも明らかな嘘だとは判明していない。だが、パターンは同じなのである。小沢を信じた。一票入れた。格差も年金も医療も臨時国会で争点にされず、新テロ特措法の駆け引きばかりやった。それでも小沢を信じた。自民党と大連立を画策する裏切り行為に出た。それでも小沢を信じてネットで吠え続けた。通常国会でも格差も年金も医療も争点にならず、選挙公約と無関係な暫定税率で騒いで審議拒否と密室談合が繰り返された。それでも小沢を信じ続ける。小泉信者とパターンは同じだ。小沢を信じているのではない。小沢を信じた自分を否定できないのだ。どれほど裏切行為をされても、バラ色の未来(政権交代)を信じて追従した自分自身を否定できないのである。小泉純一郎は内心で信者のバカさ加減をほくそ笑んでいただろう。演技だけで騙せる。言葉だけで簡単に騙せる。小沢一郎も同じだろう。これが大衆というものだとあざ笑っている。

代表選で小沢一郎がすんなり勝ち、自民と民主が「対決」の形で総選挙になり、民主が勝って過半数になった場合のことを予想しよう。小沢一郎はすぐに政界再編に動く。自分は総理大臣にはならない。衆議院の首班指名選挙には出ない。代わりに誰かを適当にポストにつける。菅直人でも岡田克也でも誰でもいい。そして何をするかだが、狙いは一本、集団的自衛権の解釈改憲と自衛隊派遣恒久法を軸にして政界再編を図る。集団的自衛権の是非を政策対立軸にして賛成派を結集し、大連立政権勢力を糾合する。この争点で自民党と連立し、同時に民主党を二つに割って反対派を追い出す。あるいは自分から出る。自民党内が大連立に賛成反対で割れた場合、自民党も二つに分かれる。すなわち、@集団的自衛権改憲の大連立勢力(議席数で三分のニの多数)、A自民党の反小沢勢力、B民主党の反小沢勢力、の大きく三つに院の構成が分かれる。民主党の反小沢勢力がさらに左右二派に分かれる可能性もある。いずれにせよ、大連立政党とその他少数政党が7党から8党という構図になる。国民新党は議員が各自分散して消えてなくなる。直前の総選挙の争点も民意も何も関係なくなるが、小沢一郎は民主党の公約も自民党の公約も両方実現できるからいいじゃないかとマスコミと国民に向かって言う。小沢信者はその言葉を熱烈に支持する。

以上のシミュレーションを提示をしてみた。こうなる可能性はある。選挙後に大連立(政界再編)して政党の名前を変えてしまえば、選挙のマニフェストなど全く関係なくなる。何も拘束されなくて済む。実際には、大連立の匂いを事前に嗅ぎ取って、野心を持った外野のグループが、例えば東国原英夫の「せんたく」だとか、江田憲司と高橋洋一の「脱藩官僚」だとかが、総選挙に割り込んでくる可能性はある。しかし、彼らが大きなブームを起こせず20議席とか30議席にとどまり、過半数を制した民主と170議席ほどの自民という二大政党維持の結果に落ち着けば、すぐに小沢一郎は大連立の政界再編に動くだろう。保守大勢力が集団的自衛権解釈改憲で一本に結集する。そして小沢一郎はその合同保守政権勢力のキングメーカーになるのである。実権を持ち責任を持たない院政支配者。政府の政策も内閣の人事も小沢一郎が全て裏で決める。操り人形(軽くてパーな神輿)を首相に据えて短期で首を挿げ替える。昔の田中角栄の地位。私は小沢一郎と日本の政治を長く見てきた。私の人生の後半の日本政治は世襲貴族の小沢一郎が気侭に政界で泳ぐ政治であり、私は彼の頭の中が透きとおるようによく見える。小沢一郎は私の前で何も隠すことができない。頭の悪い大衆は騙せても私を騙すことはできない。かくして自民党政治は終わる。自民党政権から大連立政権へとめでたく政権交代が実現する。

政権交代は即ち政界再編、政界再編はすなわち政権交代。日本的な政治だ。日本の思想だ。小沢一郎の頭の中はそうした天下取りに向けて一直線だが、しかし、私がこのようなシミュレーションを描くのは理由があって、実際のところ、こんな悠長な、小沢一郎の遊び半分の権力ゲームに付き合うような日本の政治ではいられなくなるという危機感があるからである。エネルギーと食糧の資源の高騰は日本経済を直撃し、今とは全く違う破滅的的な状況を日本に現出させる。もはや「変革」や「政権交代」のスローガンではリアリティがなくなる本当の危機の時代が到来する。弱い企業と弱い家庭が潰されて滅亡する。自治体も潰れる。そのことに薄々気づいてテレビで黙示録的な予言を示しているのは経済学者の金子勝だけだ。「変革」ではリアリティがなくなる。「革命」か「戦争」がリアリティを持つ。そういう時代になる。指導者を入れ替えてレジームをチェンジするしかない時代が来る。