彼女がいない - 加藤智大の自虐ひがみモノローグと新自由主義
加藤智大より少し若かったとき、休日の朝、初めてよみうりランドに行き、そこで観覧車に乗った。暫くすると、一緒に乗った女の子が不意に目を瞑って、こちらに唇を突き出してきた。私は固まり、そのまま何もできず、ただ混乱し狼狽して、視線をカーゴの外に広がる多摩丘陵の方に逸らしていた。多摩川が見え、ああここが飛雄馬がバスに乗って合宿所から二軍の練習に通った場所だなと、そんな昔の野球マンガの記憶と想像で意識を埋めて、観覧車が下に降りるまでの長い時間を待った。間が悪く、気恥ずかしく、自分の臆病と無能に萎えた。楽しいはずの合同ハイキングで、その後はすっかり元気を失い、気分が落ち込んだままだった。一時間前に初対面して挨拶を交わし所属部署を聞いたばかりの子。東京の女の子は積極的だぞ、田舎じゃ考えられんぞと、上京する前に東京の大学へ行った連中が話をしていたが、あの話はやはり本当だったんだとそんなことばかりが頭の中を廻り、あの女の子に悪いことをしたのだろうかとか、あれでよかったのだろうかとか、後悔と憔悴と昂揚の気分が交錯する中で、若者にとっての東京の魅力を存分に感じ、東京に出てきてよかったと思った。 

そこに就職してよかったとも思った。仕事の関係で、独身の新人の男だったから、そういう機会に呼んでもらっていたのである。同じく独身の新人の女の子が集まっていて、それはHRがレクで企画してくれた若い男女の出会いの場だった。そういう体験を持っている人は多いだろう。そこで伴侶を見つけた人も多いだろう。昔の日本の企業は若い社員たちにそういう男女交際の機会提供の面倒を見てくれていたのである。加藤智大の「彼女がいない」「彼女が欲しい」を私は簡単に見逃せない。これは大きな問題だ。犯行に至る動機の解明において欠かすことのできない重要な要素であり、どのような問題かを考えて言わなくてはいけない。もっと努力しろとか、人を殺すくらいの勇気があるのなら彼女の一人くらい掴まえろとか、簡単に言うけれど、それはやはり違う。昔の日本の終身雇用制の企業社会というのは、職場恋愛と職場結婚がきわめて多かった。企業が職場結婚を奨励していて、人事は女子社員を採用するときに男子社員にとっての「良妻賢母」の資質や条件を前提にしていた。よくも悪くも。われわれの世代は言わば職場結婚の世代であり、その前の世代がお見合い結婚の世代である。

両性の合意にもとづく結婚と言いつつ、結婚はやはり社会が媒介している。社会のサポートと半強制の契機がある。組織の支援を受けながら恋人を得たり伴侶を得たりしてきた人間が、そうした方面での組織の支援を受けられない現代の派遣労働者の若者に自己責任を押しつけるのを私は許せない。われわれの場合は、社会がお膳立てをしてくれた上で僅かの自助努力をすればよかった。突き出してきた唇に自分の唇を押しつければよかった。社会が機会を与えてくれていたのだ。年収200万円の加藤智大の給料での生活を想像すると「自助努力」は相当に困難だろう。われわれは恵まれていた。彼女を見つける。彼女を探す。それはどうやってやるのだろう。会社のHRがそういう機会を提供するのでなければ、会社の同僚でそういう機会提供の社会保障システムを作らないといけない。数年前に藤原紀香が携帯電話の静止画撮影転送機能を宣伝するコマーシャルで出てきた合コンのシステム。今、あれができるのはきっと恵まれた正社員だけで、派遣労働者は絶対にできないはずだ。派遣同士で合コンの企画は無理だろう。正社員の合コンに派遣社員は呼ばれるだろうか。費用の捻出の問題があるではないか。

派遣社員が正社員に合コンに誘われる場合を想定すると、むしろパワハラの契機すら頭をよぎる。20代の働く男の子が職場以外で交際相手の「彼女」を作ろうとすれば、恐らくきっとその前に多くの男の友人を作る必要がある。同性の友人のネットワークを作り、点ではなく面の交際範囲を持たないといけないだろう。同性の友人を持つためには、性格や努力や偶然も大事な条件だが、やはり趣味を持つ必要がある。趣味を持つためには、そう考えると、最低限の所得は必要だということになる。恵まれていたわれわれの過去の境遇を振り返ると、夏はテニス旅行で信州、冬はスキー旅行で上越や信越というのがあった。少なくない若い労働者がその機会を持てる立場にいた。スキーは金のかかる趣味で、板とウェアを買い揃えると5万円とか10万円とかが飛んだし、1回のスキー旅行で2万円とか3万円はかかったはずだが、それでも若いサラリーマンは頻繁にスキー場に行った。年収200万円でボーナスがなく、健康保険も自前で払わされている加藤智大には、この趣味に参加するのは至難の技だろう。趣味は境遇や所得の水準で決まる。貧困者がネットにコミュニケーションの場を求めるのは、外に世界を広げる経済的余裕がないからだ。

ネットが安上がりで手軽なコミュニケーションの世界を提供してくれるから、だから貧困者がネットに集まるのであり、ネットに人間関係を求めざるを得ないのである。マルクスは、意識が存在を規定するのではなくて、存在が意識を規定するのだと言った。存在が意識を規定する。加藤智大の意識も加藤智大の生活によって規定されていて、その生活は収入によって規定されている。そう言えるのではないのか。加藤智大が「彼女」の存在を欲していたというのはよく分かる。それは孤独を癒し慰めてくれる存在であり、欠乏を埋める存在であり、そしてかけがえのない精神的な支えの存在だ。家族になる前の相手の存在だ。自分の子供を産んでくれるかも知れない相手だ。それを強く求める精神の方が正常で、欲求が小さいほど不自然で、無くても欠乏感を感じない方が異常だと言える。新自由主義は古代奴隷制を理想とする思想であり、「負け組」を人間ではなく奴隷にする。奴隷には結婚は許されず、家族を持つことはできない。現在の日本の社会は、「負け組」の若者たちに結婚を許さないのである。両性が結婚して家庭を持つためには最低限の金が要る。派遣労働のシステムは労働者の結婚を前提にしていない。結婚の保障をせず、次世代の誕生と生育を前提しない。

人口減は海外の安価な労働力の輸入で解消するのであり、その方が日本人より安上がりで不満も言わないから都合がいいのだ。世代継承、つまり結婚と家庭と生命の再生産は「勝ち組」だけの特権となり、「負け組」はその代でDNAの複製を終えるのである。絶滅するのだ。「勝ち組」の日本人だけが特権貴族として残る。労働力は外国人が提供する。古代ローマの社会。政治がそれを象徴的に暗示しているではないか。森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、町村信孝、中川秀直、山本一太、小沢一郎、鳩山由紀夫、全部2世ではないか。世襲貴族しか権力を持てないではないか。加藤智大は、携帯掲示板サイトの自虐モノローグの中で、「勝ち組」の男たちが女を全て独占してしまっているから「負け組」の自分には割り当てが回ってこないのだと愚痴っていて、それに対してマスコミ言論人が加藤智大のひがみ根性を猛然と批判している。だが、実際のところ、非正規労働が体制化された現代の社会では、金と権力については確実にそう言える。女はどうか。男と女は等しい数が地上にあるはずだが、結婚できない(結婚する条件と能力がない)男を交際相手に選ぶ独身女性はいないだろう。よほど別の条件を持っていないかぎり。それが加藤智大の言う「顔」だ。

加藤智大の自虐モノローグは、瑣末で身勝手な愚痴でありながら、格差社会という構図から捉えれば、実に本質的で論理的な主張なのである。不幸なのは「負け組」の若い男だけではない。女も同じだ。どれほど結婚相手を探そうとしても、結婚できる条件と能力のある男を見つけることができなければ結婚できない。女が男を選ぶように男も女を選ぶ。女の方も結婚できない。オットセイのハーレムのように「勝ち組」の男に論理的に所有されながら、遺伝子を複製する結婚を掴むことはできないのである。女は自分と自分の子供を幸福にできない男を愛することはできない。格差社会というのは、太古から継承されてきた大量のDNAが死滅を余儀なくされる残酷な社会であり、日本人の生粋の人口が一気に減少する社会である。派遣労働者に一度なれば、男も女も死ぬまで待遇は同じなのであり、30になっても、40になっても、50になっても、ワンルームマンションの寮と工場の現場を往復する独身労働者で、月給は20万円で変わらず、食事はコンビニの弁当で、趣味はアニメとゲームであり、コミュニケーションは携帯掲示板サイトのモノローグと揶揄と罵倒なのである。そして少しでも社会に不満を漏らせば、マスコミ評論家やネットの新自由主義者から罵声を浴びるのだ。

おまえが無能で人間のクズだから仕方ない。生きるのがイヤならさっさと死ね。くやしかったら努力して金持ちになれ。格差はいつの時代でもある。日本の格差なんか他の外国と較べたらずっとましだ。そんなに資本主義がイヤなら中国か北朝鮮に行けよ。