一か月後の風景 - 改革の復権、政治言語としての「改革」の揚棄
ソ連という国は、それを創建した指導者であるトロツキーを侮辱し中傷するための群れ合いコミュニティだった。トロツキーがいなければロシア革命の成功などなく、革命の功績者はレーニン以上にトロツキーだったが、ソ連邦の歴史の最初から最後までトロツキーは悪魔であり、国家の全精力を傾けた迫害が70年間にわたって続けられ、デマによる歴史の改竄と捏造が行われた。トロツキーを罵倒しなければ、ソ連のコミュニティでは生きていけず、トロツキーに容赦のない誹謗中傷を浴びせることが、コミュニティに参加できるパスポートを得る条件だった。野心家の新参者がコミュニティで出世したいと思ったら、誰よりも過激なトロツキーへの誹謗中傷をするのが早道だった。左翼のコミュニティは、毎日一度はトロツキーに向かって唾を吐き、偉大な「緩やかなネットワーク」の神の前に拝跪し、群れ合い共産主義の信仰告白を言い合って、トラックバックを送りっこしてコミュニティを維持していた。生産力のレベルは低く、ただの宗教団体だった。

一か月前、NHKで『ワーキングプアV』の放送があり、TBSの「NEWS23」で『生活破壊特集』があり、「サンデーモーニング」で新自由主義批判の決定版のような報道があった。参院選で示された2007年の民意を総括表現したような報道だった。世論の多数が格差是正を求め、格差社会を齎せた構造改革に対して批判的であることを宣告した象徴的な出来事だった。だが、新年が明けて改革派の猛烈な巻き返しが始まり、年末の報道の余韻が消し飛ぶほどの威力で「改革」の復活が始まっている。鳴りを潜めていた竹中平蔵がマスコミの表舞台の顔になった。ロンドンの何かの会議に出席して話した些事さえ、テレビ朝日は撮影隊を繰り出して国内のニュースで大々的に報道した。株安の経済不安を利用して、福田政権の「改革の遅れ」を宣伝扇動し、その集中的な世論工作の結果、「改革」の言語のシンボルをマイナスからプラスに引き戻すことに半ば成功した。改革派の正規軍としてその世論工作の主力を担ったのは朝日新聞とテレビ朝日だった。

改革批判の側、すなわち格差是正を求める側が押されて崩れ始めたと思う理由の一つは、格差や改革に対して批判的な側が、改革という言葉を批判的に使っても有効ではないというような意味のことを言い始めたことにも窺える。これが要するに、シンボルのマイナスからプラスへの回帰の意味だが、批判する側が「改革」の言葉の水戸黄門の印籠の前に平伏してしまっている。そうなったら改革派の思う壺だ。前から何度も言っているとおり、「改革」の日本語に悪性の意味を付与することをしなければいけない。このことを説明するために、私はマルクスの「資本」の例を出した。辞書で引けば分かるが、「資本」には三つの意味がある。@一般的日常的な意味、A会計法上の専門的な意味、B経済学的な意味、の三つである。Bがマルクスの定義であること、言うまでもない。マルクスが定義を与えるまでは、Bの意味は辞書にはなかった。このことが重要なのである。そして端折って言えば、@もAも悪性のニュアンスはない。中性だ。Bには悪性の含意が滲む。

批判的な意味がある。文章の中で「資本」の言葉を使うとき、@の意味で使用していても、必ずそこにはBの悪性のニュアンスが被さってくる。それを意識しないわけにはいかない。「資本」の言語には、資本家と労働者の階級分裂とか、搾取とか収奪とか、そうした資本主義社会(自分自身の現実社会)への反省的な視角が編み込まれていて、それを意識せずに言葉を使うことができない。「資本」という言葉を使うときは要注意となる。「資本」には悪い意味が含まれていると思うからだ。マルクスが定義を与える(加える)まではそうではなかった。さて、ここに「改革」という日本語がある。辞書の意味は、@社会制度や機構・組織などをあらため変えること、Aよりよくあらためること、とある。私が言っているのは、ここに、B新自由主義の経済政策の総体、規制緩和等によって資本の蓄積と増殖の効率を上げること、国家による社会保障を削減して「小さな政府」を実現すること、構造改革とも言い、小泉政権の時代に強力に推進された、の意味を書き加えるということである。

国語辞典を書き換える。辞書の「改革」に新しい意味を書き加える。これを成功させられるかどうかということだ。成功させられれば、われわれが勝利したということになる。福祉国家の日本を体制として本格的に実現するということは、単に政策が変わるとか、政権が変わるというだけでなく、原理的思想的に根本的に社会が変わるということであり、すなわち辞書が変わらなくてはいけない。言葉の意味が変わったことが社会的にオーソライズされなくてはいけない。私は、ここで「資本」の国語辞典の意味を例に出したが、それにはもう一つの意味があって、例えば、日本が完全な新自由主義国家になり、NHKが『ワーキングプア』の番組など制作できなくなり、労働基準法の法規が完全に削除されるか骨抜きとなり、憲法25条の文言まで「時代に合わせて変えようや」となったとき、国語辞書の「資本」のBの意味は、果たして辞書の中に生き残る場所を与えてもらっているだろうかとも思うのである。例えば、米国の国語辞典(英英辞典)の"capital" にBの定義は与えられているかどうか。

古い言葉だが、イデオロギー闘争というのはこういう問題である。最近は、イデオロギー闘争などという言葉遣いそのものが古臭くなり、誰も言わなくなってしまったが、現実政治の中でその実在は生きていて、生きているどころか日毎に重大な問題となっていて、今では「情報戦」などという言葉で代替されて表現されている。何度も言っていることだが、竹中平蔵がプロパガンダする新自由主義の諸政策が、聞く者の耳に邪悪で害毒な感覚を与えずに通過するのは、それらの政策が「改革」という日本語でオブラートされパッケージされスタンプされているからである。聞く者の「改革」の言語了解の中に負性で悪性なものだという観念の前提がないから、だから竹中平蔵のプロパガンダは成功するのである。新自由主義の政策が障害なく通るのだ。したがって新自由主義に対抗する側は、日本においては、「改革」の言葉の定義を戦略目標に据えなければならず、そこで主導権を握らなくてはならない。「改革」の言語にBの意味を付与すること。政治言語としての「改革」の揚棄とは、そういう意味内容を指す。

昨夜(1/28)の「報道ステーション」にはダボス帰りの猪瀬直樹が出てきた。これからガソリン国会があるから、その方面の専門家である猪瀬直樹の出番が多くなるだろう。改革派(新自由主義陣営)にとっては、この局面での猪瀬直樹は絶妙の適材投入で、ここで再び「政官業の癒着の構造」を叩きまくって、構造改革の意義と必要性を政治の前面に浮かび上がらせることができる。猪瀬直樹も「オレの出番だ」とばかり張り切っていた。「政官業の癒着」叩き、無駄な道路とハコモノ叩きは、改革派が抵抗勢力を押しのけて新自由主義政策を国家の中枢に定置するときの戦略手法だった。今回、民主党が通常国会をガソリン税の攻防に争点設定したことから、日刊ゲンダイを始めとする反自公政権のジャーナリズムが、再び「政官業の癒着構造」を叩き始め、国交省の官僚の予算無駄遣いに筆誅を加えている。それに呼応して左翼系ブロガーが同じ標的を攻撃し始めた。新自由主義者と左翼が両方から「政官業の癒着」に十字砲火を浴びせる政治言論構図ができている。両方にとって敵は福田政権で利害一致している。

そうなると、新自由主義と左翼が共闘して「バラマキ批判」を合唱する構図となる。@改革派のマスコミでのプロパガンダの復活、A改革新党を展望した政界再編の動きの加速、Bガソリン国会の論戦と格差問題の後退、C「政官業癒着」批判の言論状況の中での「改革」の復活、これがこの一か月間の政治の動きである。一か月間で大きく状況が変わった。だが、一番大きく変わったのは、上の4点ではなく、実はNHKの報道である。会長が橋本元一から新自由主義者が送り込んだ福地茂雄に代わり、そのせいか、この一週間ほどで報道内容がガラリと変わった感がある。まず一つは、杉並区立和田中学校の有料授業についての報道で、1/26と1/27の土日の二日間、7時のニュースで長い時間を割いて紹介していたが、あれはまさに藤原和博校長の宣伝そのもので、父兄と生徒が大喜びしている場面ばかりが映像で流されていた。あれは新自由主義の側が他の全国の中学校に「同じことをやれ」と薦めるメッセージそのものである。教育の格差拡大を公立校自身が推進する悪質な新自由主義政策のプロパガンダ。

驚きながら映像を見たが、それ以上に驚いたのは、1/27(日)と1/28(月)の三宅民夫の『日本とアメリカ』のシリーズで、1/27の「深まる日米同盟」の放送では、三宅民夫自身が、「日本国内での集団的自衛権の議論が現実の日米同盟の変化に追いついていない」と言い切り、要するに早く憲法解釈を変えて集団的自衛権を認めろと言っていた。石破茂と高村正彦の日米同盟拡張論を頻繁に出し、在米駐在武官の制服組幹部を主人公のように出し、インド洋での給油再開のために苦心して奔走している姿を映し出していた。給油再開の世論では反対の声が多いことなど、三宅民夫は全く意に介してない様子で、あの番組は森本敏か志方俊之がディレクターで製作したのではないかと思えるほどだった。とても一ヶ月前に『ワーキングプアV』を放送した同じNHKの放送とは思えなかった。1/28の「ジャパン・パッシング“日本離れ”との闘い」も酷くて、米資のために日本の経済制度をさらに改革・開放しようという内容で、これは竹中平蔵か大田弘子が製作したものとしか思えなかった。三宅民夫がキャスターというので悪い予感はあったが。

すなわち、DNHKの新自由主義への逆行、がある。一か月で政治は変わる。