あの熱狂を盛り立てたマスコミは、なぜ小泉純一郎氏の凋落を報道しないのか!?

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  神奈川県横須賀市の市長選挙は、小泉純一郎氏が推す現職の蒲谷亮一市長が、新顔の吉田雄人氏(33)前市議に、4000票の差で敗れるという注目すべき出来事が起きた。 この横須賀市長選は、国策トレンドが急激に切り替わったことを指し示しているのだが、メディアはなぜか、この画期的なできごとの報道には奇妙なほど沈潜的だ。

  横須賀市は小泉純一郎元首相のテリトリーである。小泉元首相と次男は、現職市長の蒲谷亮一氏を熱心に応援していたという。それにもかかわらず蒲谷氏は敗北し、小泉元首相のカリスマ性が完全に衰退していることを如実に示した結果となった。不思議なことは、これほどニュースバリューが高いできごとなのに、マスコミはこれを報道することを明らかにためらっているのだ。

 天木直人氏もそのことに注目しているが、メディアのこれに対する沈潜的な姿勢は、考えてみると、とても奇妙なことだと言わざるを得ない。小泉劇場をこれでもかと盛り上げたマスコミは、小泉氏のカリスマ性が完全に低落してしまった今、報道することさえも無駄なことだと思っているのだろうか。しかし、国民から見れば、この話はそうとう高いニュースバリューを持っているので、例えばテレビがニュースで解説を交えて報道したり、ニュース番組で特集を組んで話題を作れば、そうとう高い視聴率を稼ぐことは間違いない。

 メディアは商売的にも、小泉純一郎氏の影響力の完全低下を報道ネタにすることは、美味しい話のはずだ。ところが、どのテレビ局も判で押したようにこのニュースには消極的なのは奇妙と言うしかない。これには明らかに強い政治的背景が存在していると考えるべき理由がある。

 小泉氏の政治家としての政治的影響力やカリスマ性はとっくに雲散霧消しているのだが、メディアがそのことを禁忌扱いしていることには、はっきりしたわけがある。小泉氏という政治家はとっくに過去の人だと位置づけているが、肝心なことは、彼が推し進めた小泉・竹中構造改革路線は継続させることを、至上命題として位置づけていることは間違いない。

 つまり、アメリカに服従している日本のエスタブリッシュメント(悪徳ペンタゴンに属する)は、小泉政権が始動した構造改革路線を今後も実質継続して行く方針なのである。だからこそ、これを敷設した小泉元首相の影響力の低下をいっさい報道できないわけである。普通であれば、小泉氏の影響力の低下は、小泉構造改革のブレーキと解釈され、時代の変遷を国民に意識させることになるのだが、それをやってはならない理由がメディア側に存在していると解釈するべきだろう。

 つまり年次改革要望書の「引き続きの具現化」が既定路線になっているからだ。それに日本郵政の株主総会で西川社長の存続が決められた事を見てもわかるように、日本の国策は小泉時代にスタートした構造改革路線を堅持することが決められているからだろう。したがってメディア、特にテレビにはアメリカの影響が強く働いていると見れば、小泉氏の凋落を報道することが禁忌扱いされることは理の当然である。

 小泉構造改革路線を継承する勢力は、中川秀直氏や武部勤氏らが中心となって構成される偽装CHANGE勢力である。つまり、自公政権が存続すると、あの地獄の小泉構造改革が徹底的に続くことになり、国民生活は今以上に極限的に破壊されることになる。偽装CHANGE勢力とは、表面の形態やスローガンだけを変えて、いかにも新しいのもののように偽装するが、内実はまったく変わらない日本破壊路線の悪辣政治が続くことになる。

 メディアが小泉氏の凋落を絶対にニュースネタにしないのは、自公政権が存続しようと潰れようと、偽装CHANGE勢力を中心に、今までの小泉政治を継続することが決まっているからである。だからこそ、東国原知事、橋下知事などの国政参加への動きは、偽装CHANGE勢力を生かす魂胆であるとしか考えられないのだ。東国原知事があれほど大言壮語ができるのは、アメリカの肝煎りがあることを自覚しているからだろう。

 心ある者は、 東国原知事のパフォーマンスに不快感を感じ、自民党はここまで劣化したのかと感じている。しかし、東国原知事が異常な頻度でテレビに出続けている現実を甘く見てはならない。アメリカの意志がこの男を立てているのだ。

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植草さんの国策捜査事件を生んだ小泉政権の政治土壌

  ○奇妙な写真配置に見える政治的な思惑

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 2009年6月27日、10時40分のMSN産経ニュース「植草被告の実刑確定へ」には、記事の下部に小沢一郎氏と植草さんのツーショット写真が不自然に置かれている。その写真をクリックして拡大して見ると、写真の下に「新進気鋭のエコノミストとして活躍していたころの植草一秀被告(右)と、対談する小沢一郎氏(芹沢伸生撮影)【撮影日:2001年12月21日】」という説明文があるだけだった。

 つまりMSN産経ニュースは、植草さんが実刑確定になったという本記事に、このツーショット写真が置かれた文脈をまったく説明していないのだ。これが、来るべき総選挙を想定した、民主党に対するブラックPRでなくて何だろうか。植草さんが実刑確定されたというネガティブ・イメージをそのまま使って、民主党の小沢一郎氏は有罪になったエコノミストの植草氏と対談しているんだぞという、ネガティブ・キャンペーンである。それに本文に掲載されている、目を剥いた植草さん自身の写真にも産経側の悪意が感じられる。私もそうだが、植草さんに直接会った人は、彼がいつも穏やかで上品な表情をした人物であることを知っている。

 しかし、フジサンケイグループが取ったこの手法は、逆効果に出ているように思う。ネガティブ・キャンペーンの目的だったとしても、本文記事との何の内容的脈絡も説明もせずに、この写真を付加する構図は異様であり、見ている人は何かの印象操作だと思うだろう。この構図を考えて実行した者は、その不自然さに気付いておらず、稚拙な政治的意図を読者に気付かせるだけだということがわかっていないようだ。この配置自体が強く政治性を思わせるが、植草さんの実刑確定が、逆に政治的謀略だと思わせる、一つの傍証になっているとは思わなかっただろうか。

○国策捜査という言葉は四年の間に市民権を得た
 
 私は、植草事件(2006年9月13日)の翌日に、2004年の植草事件も今回も、政治的謀略、すなわち国策捜査の疑いがきわめて濃いと書いているが、今から後二ヵ月半で、それを書いた時期から満三年になる。当時は佐藤優氏が「国家の罠」で説明していた「国策捜査」と言う言葉が、世間的にはほとんど浸透していなかったこともあり、私が唱えていた植草事件国策捜査説も、荒唐無稽な説だと思われていたきらいがあった。

 三年前は政府関係者や政治家は誰もこの言葉を公の場で使っていなかったのだ。つまり、国策捜査という言葉は、あたかもユダヤ陰謀論のようなイメージで捉えられていたものと思われる。ところが、最近は小沢一郎氏の公設秘書が西松建設の献金問題で逮捕された件では、肯定、否定の立場の違いは別にして、この国策捜査という言葉が頻繁に政治家や評論家の口に上り、ごく日常的な語句のように使用されていた。それだけ、この三、四年で国策捜査という言葉は世間に流布し、市民権を得たと言っていい。

 しかし、この言葉を知る多くの国民が、その正確な意味を正しく把握しているかとなれば、それは疑問である。この言葉の出所(でどころ)である佐藤優氏の「国家の罠」では、佐藤氏が国策捜査について重要な定義づけを行っている。それは、国家が時代のけじめをつけるために、前の時代を象徴する事件を作り出して断罪することだというのである。つまり、前の時代を象徴する人物を人身御供にして、時代は既に新しい方向へ舵を切り替えたんだよというアピールを人々に印象付けることだという風にとらえてもいいだろう。

 大方の意見は国策捜査を、今までの政治謀略事件と同義に解釈しているような気がする。たしかに政治的陰謀という意味では、まったく同じ意味合いがあるが、国策捜査に「国策」が付いている理由は決定的だ。それは時代を決定する現今の国策トレンドを認めない、旧時代の国策を擁護し主張する有識者の象徴的血祭りである。ここに決定的な政府側の詐術がある。それは、現在の国策が進歩的で良いものであり、これに反対するものは前時代的で旧弊にしがみついた者という強引な二分論を設定することだ。

 これは小泉純一郎氏や竹中平蔵氏が常套的に吐いていた「抵抗勢力」という言葉に端的に表れていた。現今の構造改革や民営化に賛成しない者は旧時代にしがみつく悪辣な抵抗勢力であり、時代を害するマイナス要因以外の何物でもないという一方的な決め付けである。つまり彼らが推進した「聖域なき構造改革」が如何に胡散臭いものであったかが、よくわかる。

 抵抗勢力という言い方そのものに、彼らが設定したインチキで傲慢な単線的な進歩史観が見えてくる。アメリカ型市場原理こそが、唯一の正しい進歩であり、それ以外の考え方は進歩を阻む間違った抵抗勢力だという暴力的な決め付けである。彼らが進歩だと称したものの正体は、無茶苦茶な規制緩和によるセーフティネットの大破壊だった。すなわちグローバル資本主義こそ最高の経済価値だという、カルトに近い妄信状態にあったのである。すなわち新自由主義の迷妄に嵌っていたのである。

 私は小泉政権を深いレベルで総括する必要があると言った。それはこの政権が、それまでの政権と比べて、何が本質的に変化したのか、何が一線を画しているのかを、社会学的に、政治学的に、経済学的に、日本の戦後史的に解明する必要があるということである。なぜなら、小泉政権の国策の性格をきちんと見究めなければ、傷ついた日本社会を修復できないからだ。今の国策トレンドのままで格差社会の是正や予算の配分、その他の行政的方法論を駆使しても、基本的な国策を切り替えない限り、何の解決にもならないからだ。

 ネオリベ体制を保持したまま、どのような小手先の手当てを施しても、何の救済にもならない。方法論のベーシックは日本人の民族性に合致した政治経済の展望を取り戻すことにある。だいたいが、ワシントン・コンセンサスやハーバード・シンジケートの社会学を踏襲し続けている今の路線では、日本は衰亡一直線である。毀損された日本社会を建てなおすには、当面は小泉・竹中構造改革路線の逆ベクトルを志向する以外にないと思う。

 健全な市場競争は必要だと思うが、それは国民生活のセーフティ・ネットの構築を優先した上で行うべきである。小泉政治はその真逆をやって国民生活を破壊してしまった。考え方として、ケインズかネオリベかという二元論的思考よりも、日本人の性向に合った「経世済民」的な経済機構を作るべきだと思う。それにはアメリカの経済戦略に負けない知恵を集結するしかない。

 小泉政権を学究的にとらえて分析できる有識者は多くいるかもしれないが、植草一秀さんはその第一人者だろう。小泉政権の負の性格を知れば知るほど、それは将来の日本の刷新に役立つと思うからだ。問題は小泉構造改革は悪くはなかったが、行き過ぎた部分が人々を苦しめているなどと、寝ぼけたことを言っている学者や為政者は、完全に無能者であり有害である。

  ○日本の伝統文化を踏みにじった小泉政権の国策

 その理由は、日本の伝統や文化、日本式ゲマインシャフトなど、それまで戦後日本が築いてきた良い物を、アメリカの言うがままに破壊しつくしたのが小泉政治の実態であることを充分に認識する必要があると考えるからだ。その国のマーケット形態は、その国固有の構造を持っているのが当たり前であり、そうであるからこそ、有効に機能すると思う。

 アメリカは日本固有のマーケット形態を指して、不透明で閉鎖的だと、ヤクザのような難癖を付け、無理やり、グローバル資本主義に合致する形態に切り替えさせた。それは金融侵略の舞台を整える目的があったからだ。それに抵抗しなかったのは、日本人が反省する必要がある。アメリカが日本の国益を考えて内政干渉をやるはずがない。

 小泉政権時代の国策は日本人を不幸にする隷属国策であったことを、肝に銘じる必要がある。植草さんへの二度の国策捜査がなぜ生じたかについて、深くそれを分析することはつとに有益であり、そこに日本の再出発のヒントが多くあると思っている。

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神州の泉による「植草事件」関連記事

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植草事件が国策捜査であることと同様に、今回の最高裁判断も国策裁判である

 前回記事の私の憂慮と同じ思いをお持ちの「びっくりモグラ」氏の投稿を紹介する。
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 植草さん」についてのニュースが耳に飛び込んできたとき不吉な想像をしましたが、「縁起でもない、これはわたしの悲観的妄想にしか過ぎない。口外するのは控えよう」、と自分に言い聞かせたところです。その後,「神州の泉」様が私と同様の危惧を,収監後の植草さんに感じていらっしゃって、とるものも取り敢えずこうしてメールを差し上げている次第です。
 
 実は、私も植草さんと同じ体験をしていますが、それだけに獄中での思いを書きつづった「拘留地にて」は自分の過去の記憶を想起させられ、恥の感覚もなく思わず嗚咽してしまいました。もちろん植草さんの文体から強烈に湧きあがってくる、人格の清潔さ、強靭な意志、そして比類のない分析・総合力、(とりわけ、りそな、郵政民営化についての、ほとんど孤立無援状況を覚悟しての、一貫したち密で正確な分析。当時、ミルトン・フリードマン由来の「雨後の竹中」一派の行く末、つまり今日の、明らかになりつつある彼らの悲惨を予告した仕事。

 静かで、温く語りながら、毅然とした精神をさせる学者は、たとえば内橋克人氏、金子勝氏など少数ながらいらっしゃいますが、「金融」論という生臭いジャンルを専門の一つとしながら、あれだけの気高さを維持でできた事実はほとんど奇跡に近い、といっても言い過ぎではない、ようにおもわれます。)に感銘を受けたことがその要因のひとつですが、獄中での心の動きを淡々と描きつづったその無念の思いに「激しく」心を揺さぶられたことも否めません。
 
 どうにもならない私事をいまさら蒸し返したところで詮無い話です。パワーによる、用意周到なシナリオ、公安を中心とした「転び公防」=でっち上げのための証拠づくりには、いかに図抜けた才能の持ち主である植草さんといえども勝ち目はありません。
今望むのは,「神州の泉」様の心配されている獄中での事故がないように、ひたすら念じることしかありません。

 どうかご無事で、もう一度すばらしい発見をさせてください。御身大切に。

______________________________________________

  (管理人)

 既得権益にしがみつき、構造改悪によって新たな権益構造を構築している権力筋は、国民側に立った正義の有識者を毛嫌いし、その言動を封じる策に出る。その手のことは昔からあるが、小泉政権の場合は国策パラダイムを別のものに変えたと解してもいい。それまでは従来の修正資本主義というケインズ主義と市場原理主義をバランスさせた、ある種の混合経済政策が取られていたが、小泉・竹中構造改革はルーカス、フリードマンの純粋市場原理形態に切り替えた。これは言葉を換えて言えば、日本的市場形態の完全な消滅を意味し、日本をグローバル資本主義に衣替えしてしまったと言える。

 1980年代の日米構造摩擦戦争の完全な帰結がここにある。日本は日米経済戦争に敗北したのである。アメリカは小泉元総理や竹中元経済財政担当相を、敵国の内部斥候として使役し、日本を内部から切り崩したのである。これほど巧緻に長けた戦略があるだろうか。日本のエスタブリッシュメントや為政者は頭が悪すぎる。何の対策も施さずにアメリカの経済侵略の為すがままに任せてしまったのだ。自らの保身と近視眼的行動でアメリカの魔手を見抜けずに座視してしまった。

 植草事件はこういう買弁勢力の斥候的な工作の中で生じた、一人の英雄の物語である。二度の植草事件は、従来の修正資本主義構造の中で起きた政治謀略ではなく、国策としてグローバル資本主義へ大転換して行く中で生じた政治謀略事件である。従って、それはくっきりとした国策捜査事件と言うことができる。

 私は経済の素人なりに、このブログで何度も小泉政権の本質を、政治的に、経済的に、戦後史的に究明しろと言ってきた。その理由はこの政権が修正資本主義の表情をして、実はネオリベラリズムへの大転換だったからである。しかも、この構造替えは、アメリカに国富を吸い取られる規制改革(改悪)に彩られるという最悪のパターンをたどっている。これに気付かずに、日本の優良資産は外資に格安で買い取られ、従来あった再配分システムは断ち切られていった。小泉政権とは一貫して外資と一部特権階級のみに利益は集中する極端な傾斜配分構造を実現した。あとは見ての通りである。

 しかし、日本の有識者は全員愚鈍で無力で為すがままだったのか?いや、我が国には植草一秀というサムライ魂を有した不退転のエコノミストがいた。国民がマスコミがもてはやした小泉政権の華やかな偽装に騙されている時、植草さんだけは一貫してこの政権の悪の構造を糾弾していたのである。この事実に目を投じなければ植草事件の本質は見えてこない。彼は国益を損なうマクロ経済を批判し、りそな破たん処理にまつわる巨大金融犯罪を嗅ぎつけていた。

  国民を上手く騙し続け、りそなのインサイダー取引は成功した。そして今度は郵政民営化という巨大利権発生国家事業を設定して法制化に成功し、民営化の実質スタートまで漕ぎ付けた。そして、あと一歩でこの国賊プロジェクトが完成に近づいた時、またしても植草一秀さんが立ちはだかったのだ。植草さんは、日本郵政が「かんぽの宿」をオリックスグループに破格の安値で一括売却する計画を、戦後最大の疑獄事件に発展する可能性を指摘した。そして一般国民が気付かない構造を、精緻な検証を交えてどんどん暴き立てている。

 悪徳ペンタゴンが、この状況を座視しているとは思えなかったが、案の定、彼らは喫緊に植草さんの口封じを企んだ。最高裁判決は機械的に進展したと彼らは言うだろうが、最高裁判事の裁定感覚に正義も公平性もあったもんじゃない。上告棄却を悪徳ペンタゴンの要請するがままに行っただけだ。国策裁判である。今の日本の司法こそ、最大の権力濫用を行っているのではないのか。

 当面は政権交代が実現し、植草さんが生きて還ってくることを願うしかない。