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人類が苦難を経てやっと得た、未来を照らす松明をかかげながら



当秘書課広報室、2009年の仕事始めです。

残念ながら、昨年2008年はひどい年でした。

新自由主義、アメリカの軍事的覇権主義に全世界が翻弄された2008年。世界中で、武力や権力や経済力を持つ者たちに泣かされる人は絶えません。

それでもより良い世界を求めて、少しずつでも、ジグザグでも、前進と後退を繰り返しながらも、進まなければならない人類。

進むべき道を照らす松明(たいまつ)は何か、と考えたら、それはやはり、自由と平和を求め続けてきた数千年の人類の苦難の歴史の発展の末に(たとえある程度、ではあっても)共通の合意として人類が手にした教訓でしょう。

具体的には、その教訓は、世界人権宣言子どもの権利条約フィラデルフィア宣言などの国際的文書に凝縮されています。また、日本国内に限って言えば、日本国憲法の中の基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、法の下の平等、立憲主義などなどの原則に凝縮されています。

テロや大量破壊兵器の危険性を取り除くために武力攻撃だ、企業業績が落ちたからただちに従業員解雇だ、政権の支持率が落ちたから一人12000円の給付金で人気浮揚だ、社会保障費が増大するから消費税増税だ、というような短絡的なことばかりやっていては、人類は、あるいは日本人は歴史から何も学ばなかったことになる、私はそう思います。

武力攻撃が通常の手段として繰り返されるなら、それは世界を暴力的に、不安定にします。企業業績が落ちたから従業員をいきなり解雇していたら、人々の生活は不安定になり、治安は悪くなり、消費は停滞し、税収も減ります。政権の支持率が落ちたから給付金を出すことは、給付のための事務手続きのコストも無駄ですし、将来の負担増への人々の不安をますます大きくするだけです。社会保障費が増大するからという口実で消費税が導入されて税率が上げられても、社会保障が充実したためしはありませんでした。

自分以外の者の犠牲と不幸の上に築いた自分の幸福は砂上の楼閣である、このことを政治家や官僚から一般人まで、経営者から一般労働者まで、すべての人が認めなければなりません。

自分に起こってほしくないことが他人に降りかかることを認めてはなりません。

自分が強要されて嫌なことは他人にも強要してはなりません。

自分が持つ権利は他人にも等しく認めなければなりません。

自分の幸せと他人の幸せを共存させる調整の原則が、先に書き並べた、世界人権宣言子どもの権利条約フィラデルフィア宣言日本国憲法の中の基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、法の下の平等、立憲主義などなどです。それらの原則を、人類が長い苦難の歴史を経てやっと手にした未来を照らす松明(たいまつ)として常にかかげながら進むことこそが、世界が不安定になった今年は今までにもまして求められます。

新自由主義の失敗、それも、大失敗が白日の下にさらされて、今まで新自由主義を推進してきた側からさえも自己批判の言葉がちらほら聞かれるようになってきたから今だからこそ、改めてこれらのことを心に刻む必要があります。

当秘書課広報室もそのことを大原則において活動を続けますし、読者やブログ仲間のみなさんにも、それらの大原則に常に立ち戻ることを心からお願いしたいです。

しかし、今「活動を続ける」とは言いましたが、こんなブログを必死に書き続けなくてもよい、生まれてから死ぬまで安心して暮らせる民主的社会を早く作って、できるだけ早くこのブログをやめるという私の大きな目標をあきらめたわけではありません。笑

最後に、新年にあたって、日本を民主的に作り替える気持ちを新たにするために読んでおきたい文章ということで、二つメモ。一つ目は、「反戦な家づくり」の明月さん。

●反戦な家づくり
敗北の20年から
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-652.html

そして、もう一つは、あちこちのブログで紹介されている、2008年12月17日に朝日新聞に載った湯浅誠さんの「政治の監視、市民の責任」と題された文章。こちらは、ブログ「みどりの一期一会」から転載させていただきます。ほかに二つ、良い文章が紹介されているので、リンク先でも読むことをおすすめ。

●みどりの一期一会
「政治の監視、市民の責任」(湯浅誠)/『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』大佛次郎論壇賞に
http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/664e91ac06666c16744e1900aecc7663

政治の監視、市民の責任 

大佛次郎論壇賞を受賞して
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)
2008.12.17 朝日新聞

 今回、大変栄誉ある賞を受賞させていただいたが、率直に言って、複雑な思いがある。『反貧困』という本を書いて、貧困などないと言われてきた日本の貧困の実態を告発し、それに抗する人々の奮闘を描いたわけだが、では状況が劇的に変化したかと言えばしていない。
すでに大量横行している。単なる雇い止めを超えて、違法な予告なしの中途解雇も少なくない。もちろん被害は製造業非正規に止まらず、建設業・サービス業等にも波及し始めている。
 私の所属するNPOもやいにも、相談者が訪れ始めている。キヤノンのある工場で働く派遣労働者は、05年から偽装請負→派遣→請負とめまぐるしく雇用形態を変更させられながらも、3年以上まじめに働きつづけてきたが、今月4日から待機を命じられた。期間満了を迎える25日には、あっけなく更新を拒絶され、仕事を失い寮も追い出されるではかと不安のどん底にある。

 今回の不況「人災」
 日本経済にとって、今回の米国発不況は「天災」のように言われることがある。しかし、アメリカン・スタンダードをグローバル・スタンダードと言い換えて、新自由主義的資本主義に無批判に追随してきた経営者団体、規制改革会議、経済財政諮問会議等の責任は大きく、その意味では「人災」である。にもかかわらず、反省の弁は聞こえてこない。結局も自己責任を棚上げする人たちが主張していたものなのだ。私たちが、そんな下劣なものに引きずられる必要はない。
 私たちの取るべき責任は他にある。それは、市民生活が健全に保たれるように政府・企業を監視し、法を守らせ、一人一人の命と暮らしを守る政治を行わせる、という責任である。「お金がないから仕方ない、不況だから仕方ない」と言って、結果的に弱者の命を削ることになる政策を採用しようとする政治家は、いくらでもいる。しかしそまとき、医者は「この患者を見殺しにしろというのか」と、介護ヘルパーは「この寝たきりのお年寄りを放置しろというのか」と、労働者は「今日まで一緒に働いてきたこの仲間を路上に放り出せというのか」と異議申し立てをしなければならない。それが、市民としての責任だ。
 私たちの毎日は、「この人、あの人」と名指せるような家族・友人・同僚らとの身近な関係の中に、その一人が苦しんでいれば心ざわつき、死ねば悲しい。それが私たち市民の日常であり、その平凡な生活を守るのが政治の役割に他ならない。難しそうな顔をして国家財政の危機を語る政治家に、私たちは一瞬もひるむことなく、「この命、この生活を守れないならは、あんたは政治家失格だから退場しなさい」と言っていい。
そうするとすぐに「では財源はどうするのだ」と威嚇されることがある。2年前まで、私たちにとって「埋蔵金」など存在しなかった。しかしそれが「ある」ということになった。私たちに真実は伝えられておらず、したがって正確な判断もできない。それは私たちの責任ではない。「財源問題は、すべてがきちんと整理されて公開してくれるなら検討しますよ」とこたえればよく、そんな威嚇にひるむ必要はない。

 主権は民にある
 結局、私たちはナメられてきたのだ、と思う。自らの責任を棚上げしてところでの自己責任論や、情報公開なき財政危機論で黙らせられる、と見くびられてきた。私たちに責任があるとしたら、そこにこそ責任がある。私たちは、どんな悪政にも黙って付き従う羊の群れではない、と示さなければならない。政権を担う人たちには、私たちを恐れてもらわなければいけない。そのとき初めて社会は健全となり、悪化し続けてきた世の中に、折り返し点がもたらされるだろう。主権は民に在る。私たちはもう一度、その原点を思い起こすべきだ。
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ゆあさ・まこと69年生まれ。
NPO法人自立生活サポートセン
ター・もやい事務局長。著書に
『本当に困った人のための生活保
護申請ママニュアル』(同文舘出版)、
『貧困襲来』(山吹書店)など。

(2008.12.17 朝日新聞)

(転載ここまで)